「散策・労働の小径」第4回(『ひろばユニオン』2012年4月号)



貴重な記録 映画の中の労働


 映画がこの世に誕生したのは、いまから約120年前。それは「労働映画」だった。今回は今年のアカデミー賞受賞作品『ヒューゴの不思議な発明』を切り口に、映画と労働についてみていきたい。


映画界の「原点回帰」
 今年の第84回アカデミー賞は、初ノミネート・初受賞の「初物づくし」や最高齢受賞記録など、記録塗り替えの話題に事欠かなかった。
 もうひとつの大きな特徴は「映画の原点回帰」である。最近のハリウッド路線に飽き飽きしていた映画ファンも、久方ぶりにアカデミー賞の行方を見守ったことだろう。
 フランス映画で作品賞受賞という快挙をなしとげた『アーティスト』は、白黒・無声映画で1920年代末のハリウッドを描く異色作。アカデミー賞がはじまったのはちょうどこの頃である。
 当時は、映画が無声からトーキーへと切り替わる時期だった。第1回アカデミー賞(対象期間27〜28年)は無声映画『つばさ』に作品賞を授与するとともに、初めてのトーキー映画『ジャズシンガー』(脚本賞受賞)を製作したワーナーブラザーズに特別賞を贈った。その後、無声映画が作品賞に選ばれることはなく、今回の『アーティスト』受賞で、83年ぶりに無声映画が復活したことになる。
 一方、スコセッシ監督が初の3Dファンタジーに挑む『ヒューゴの不思議な発明』は、アメリカ人監督が30年代のパリを舞台に、草創期フランス映画へのオマージュをこめて描く冒険ファンタジーだ。まさに対照的な趣向で『アーティスト』と話題を二分した。
 結果として主要部門賞は『アーティスト』に譲ったものの、視覚効果賞、音響編集賞、撮影賞、美術賞は『ヒューゴの不思議な発明』が総なめにした。この作品は映画職人の技量の結晶という点でも、原点回帰を象徴する。そして、映画マニアをうならせる細部の神々が、各シーンのここかしこに宿っている。


最初の映画は「労働映画」
 ということで、今回の趣向は、この映画をめぐるトリビア、労働の小径版。
 主人公の少年が住むリヨン駅の時計塔内部の歯車の描写、狂言回しのバネ仕掛けの自動人形(オートマトン)等々、いずれもマニアックなメカの数々が、リヨン駅構内の日常風景の裏側にある異世界を演出する。3Dの使い方も見事だ。これまでの見世物興業とは一線を画し、映像表現としての3Dの可能性を引き出している。
 こわれた自動人形を修理する主人公の父親、そしてその父親の意思を継ごうとする主人公は、誇り高きメカニック(機械職人)として描かれている。このことも映画の原点と無関係ではない。
 19世紀末に誕生した映画は機械工業文明の申し子である。撮影機、映写機、フィルムといったコア技術はいうまでもなく、実は映画製作のプロセスそのものもまた、機械工業文明のモノ創りそのものだ。芝居小屋、見世物小屋と地続きの由来を持ちながらも、映画がそれらとはまったく異なる新しいメディアに発展していった理由のひとつはおそらくここにある。
 この映画の中心にすえられているのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて先駆的なファンタジー映画、SF映画を数多く生み出したフランスの映画作家ジョルジュ・メリエスの生涯と仕事である。手書き着色、総天然色の彼の作品が、最新設備を備えた映画館の巨大画面に映し出されるのはまさに幻想的だ。
 ところで、この映画には、脇役ながら、映画史の最初期を飾る映像がもうひとつ登場する。シネマトグラフの発明者にして映画興行の創始者リュミエール兄弟の作品である。 映画を最初に発明したのは誰か,については諸説がある。けれども、スクリーンに映写された動画を鑑賞するという今日の形式の映画を発明したという点では,フランスのリュミエール兄弟による「シネマトグラフ」の発明と,1895年12月28日、パリのグラン・カフェ地階のサロンでの世界初の映画興行(有料一般上映)こそ,映画の誕生を告げるものといえるだろう。
 メリエスが、特撮幻想映画によって夢を紡ぐ人だったのに対して、リュミエール兄弟は徹底した記録の人であった。当時のフランスの人々の日常生活の種々相を様々な角度から映像におさめた。
 シネマトグラフの最初の上映プログラムは10本の短編映画で構成されている。その冒頭に置かれていたのが『工場の出口』(撮影は1894年頃)という作品で,リヨンのリュミエール工場(写真用乾板等を製造)から出てくる労働者の群像を撮影したものである。最初の映画は労働映画だった。
 『ヒューゴの不思議な発明』の後半は、映画創世記のおさらいのような展開になっていて、映画史に残る数々の映像が登場する。『工場の出口』も一瞬のショットではあるが2回出てくる。
 リュミエール兄弟は、この作品の他にも、造船所、道路舗装工事、精錬所などで働く労働者の群像や鍛冶職人など、19世紀末の働くフランス人の映像をいくつか残している。いずれも、社会史・労働史の貴重な資料だ。


労働映画 発掘・保存を
 新しいもの好きの明治の日本人は、当時欧米で競って開発されていた映画技術を、さっそくほぼ同時期に導入した。
 染色技術を学ぶためにリヨン大学に留学した京都西陣出身の稲畑勝太郎は、リュミエール兄弟の兄オーギュストと同窓生だったことから、シネマトグラフ興業の成功を知るとさっそく機材を購入し,日本への導入をはかる。
 稲畑勝太郎による日本ではじめての「シネマトグラフ」興業は,1897年2月15日,大阪南地演舞場で開催された。活動写真時代の幕開けである。
 こうして,世界での映画の開始とほぼ同時に、日本でも映画製作がはじまった。そしてかなり初期のころから,労働映画といえるような作品も作られている。
 例えば、1907年公開の『足尾銅山大暴動』(吉沢商店のカメラマン小西亮撮影)は間違いなく,最初の労働映画にして労働争議映画である。また、同じ年に、『天下の電話交換手』、『月給日の快楽』、『紡績会社内部紊乱』などの作品も公開されている。
 映像記録の特徴のひとつは、製作者の意図を超えて、カメラの前にある現実をすべて記録する、ということである。だから、たとえどのような意図にせよ、労働に向けられたカメラの記録した映像は、過去のものであれば貴重な労働史の資料であり、現代の記録としても、労働をめぐる状況を考える上で、有益な示唆を提供する。
 過去の映画製作・上映に関する各種の記録から推測すると、日本でも相当に多くの労働映画が最初期の頃から製作されてきたことが分かる。ところが、それらの発掘・保存はほとんど進んでいない。残されているフィルムも劣化・消滅の危機に瀕している。
 失われたと思われていたメリエスの作品が発掘・復元され、晴れの上映会が催されるという『ヒューゴの不思議な発明』のハッピーエンドが、日本の労働映画にも訪れることを願ってやまない。