涙もろい隣人に囲まれた社会的孤立

(『DIO』224号、2008年2月号)

Patrasche: A Dog of Flanders, Made in Japan (2007)
directed by An Van Dienderen & Didier Volckaert


「十人十色の幸せさがし」という名コピーとともに連合運動はスタートした。誰しもが幸せを願う。当然だ。けれども、簡単に「幸せ」がみつかるほど世の中は甘くない。だからこそ人は努力する。それを支える仲間の輪が必要になる。このコピーは人々の共感を呼ぶツボを見事におさえている。
とはいえ、残念ながらハッピーエンドは世の常ではない。「末永く幸せに暮らしましたとさ」というエンディングも安心するけれど、悲劇的結末に涙することもまた、われわれの物語消費の不可欠の要素なのだ。「笑いの本願」と同時に「涙の効用」を説く人もある。深い感情移入による感動の涙は精神生活の健康にもプラスであるという。
 ところで、人々が何に笑い、何に泣くかは、多分に文化的伝統に左右されるらしい。たとえば、われわれはアメリカのお笑い番組にちょっとついて行けないところがある。イギリス人の皮肉たっぷりのブラック・ジョークも難解だ。反対に、吉本興業の笑いもそう簡単に海を越えられないと思われる。
涙の方も同様に文化差が大きいようだ。容易に理解されない日本人の涙の典型例としてよく引き合いに出されるのが、アントワープ大聖堂のルーベンスの絵の前でウルウルしている日本人の姿である。むろん、信仰心からではない。芸術的感動とも違う。多くの場合、「フランダースの犬」の悲劇的結末、村を追われた主人公ネロと愛犬パトラッシュが大聖堂の中で天に召される場面を連想するからなのだ。
異教徒のわれわれ日本人ですらこんなに感動するのだから、敬虔なキリスト教徒はこの物語にもっと涙するだろうと思うのはごく自然である。ところが、これは大きな間違いらしい。ヨーロッパでは、この物語は「負け犬の死」としか映らず、評価されることはなかったというし、アメリカでは主人公のネロは大聖堂で救われたというハッピーエンドに改作されて普及した。一方、当のフランダースでは、イギリス人のウィーダがごく短期間のアントワープ滞在の印象をもとに書いた原作の短編小説は、地域の現実とかけ離れた描写の違和感もあって、翻訳もされず、知る人もなくという状態が続いていた。
日本製アニメや日本人観光客の反応を経由して、最近になって「フランダースの犬」への地元の関心も徐々に高まってきた。昨年12月に公開された記録映画「パトラッシュ−日本製フランダースの犬」は、日本、イギリス、アメリカ、イタリアなどでの広範な取材をもとに、この物語の受容をめぐる興味深い比較文化論的考察を試みている。冷たいヨーロッパ人、陽気なアメリカ人、涙もろい日本人というステレオタイプで割り切れるような単純なことではないらしい。
この映画の公開をきっかけに、ひとしきり盛り上がったウェブ上の議論を眺めていて、あるベルギー人のコメントが目にとまった。いわく、「ネロの悲劇の背景には工業化初期のフランドル地方における社会的不平等と貧困層での広範な児童労働の存在があった。幸いにして、その後の社会福祉の発展はネロの悲劇を過去のものとした」と。ネロの悲劇をこのような社会的文脈で捉えるとは、いかにも「社会的ヨーロッパ」路線のお膝元らしい。たしかに、同情の涙は、そのままでは悲劇をなくし、幸福を増進するわけではない。それが困窮する仲間への共感に昇華され、共助や公助の社会的制度として具体化するかどうか、それが問題だ。
仮にわれわれ日本人が、ひどく涙もろい隣人に囲まれているとして、はたしてその同情の涙は、心強い仲間の共感や社会的連帯につながっているのだろうか。残念ながら、そうはいえないようだ。
昨年11月27日の連合総研設立20周年記念シンポジウム(「福祉ガバナンスの宣言」)の中で、マリア・エステベス・アベ ハーバード大学准教授は、ホームレス状態から脱け出すことは、ロサンゼルスの方が東京よりも容易であるという比較研究の結果を例に、現代日本社会の持つ「冷たさ」の側面を指摘した。今後実証研究を深めるべき重要な問題提起であろう。たしかに、戦後日本社会は「落ちこぼれ」を出さないことに努力を傾注してきた半面で、一度落ちこぼれると容易に抜け出せない傾向を持っていたかもしれない。
日本における社会的結合の弱化を示す兆候が目立つようになっていることも気になる。引きこもりや孤独死の増加は、その氷山の一角だ。「世界価値観調査」(1999-2002年)によれば、最近の日本での社会的孤立状況の広範な存在も国際的に目立っている。同調査のデータから、(1)友人、(2)仕事上の同僚・知人、(3)宗教団体の仲間、(4)スポーツ、ボランティアなど社会団体の仲間、という4つのカテゴリーのひとたちすべてとの付き合いが、日常的に「ほとんどない」か「まったくない」と答えた人の比率を計算すると、日本の場合15.3%にもおよび、データの得られる67カ国中のワースト7位に位置した。
この指標が調査国総平均6.8%の倍以上に達し、社会的孤立度が相対的に高い国は、旧ソ連東欧圏諸国(ロシア、ウクライナハンガリーポーランドなど)とメキシコ、中国であった。一方、この比率が3%未満で、社会的孤立度が相対的に低い国々は、先進工業国ではアメリカ、オランダ、スェーデン、ドイツ、デンマークであり、開発途上国ではアフリカ諸国に多かった。こうした各国の違いの背後にある要因や日本の特質の解明は今後の課題である。
また、「平成18年社会生活基本調査」の結果によれば、平成13年の前回調査に比べて、「テレビゲーム,パソコンゲーム」、「スポーツ観覧」、「映画鑑賞」など、ひとりで行う活動の行動者率が増える一方、ボランティア活動の行動者率は低下した。これは他者との付き合いの減少につながるのだろうか。
さらに、最近の職場は忙しすぎて、他者に共感しているゆとりがなくなっているのかもしれないという指摘もある。だとしたら、ワーク・ライフ・インバランスの悪循環が社会的に再生産されてしまうことにもなりかねない。
アントワープ大聖堂のルーベンスの絵の前で流す涙は、精神衛生には役立つかもしれない。けれども、それで満足してはいけない。その同情の涙を他者への共感として普遍化し、社会的連帯として組織化することが、日本社会の健康のために、いま求められている。(不)