賃金処遇のこれまでとこれから(寄り道バージョン)
『賃金事情』No.2503,2006年8月5.20日号の「特別企画『賃金事情』2500号突破 記念企画 転換期の課題 - 働き方はどう変わるか 13のトピックスでみる“これまで”と“これから”」の中の「5 賃金処遇」を書きました。原文は,寄り道が多すぎたので,校正の時に余計な部分を大幅にカットしましたが,実はこの時一番力を入れたのは寄り道の部分でした。以下は,オリジナル寄り道バージョンの「賃金処遇のこれまでとこれから」です。いざ,ご笑覧あれ。
賃金処遇のこれまでとこれから(寄り道バージョン)
鈴木不二一
とてつもなく大きなお題を頂戴した。ない知恵を絞ってみたけれども,三題噺に仕立てるところまでは能が及ばず,大きな話と,中くらいの話の二本立てで,筆者なりの見立てを述べてみたい。
1. 賃金に理想などない
まず,大きな話,に行く前に,ちょっと寄り道。
劇団四季がミュージカルに仕立てて,現在ロングランを続けている,三島由紀夫の名作『鹿鳴館』の第3幕,最後の場面で,主人公景山伯爵はつぎのような名台詞をはく。曰く,『政治の要諦とはかうだ。いいかね。政治には眞理といふものはない。眞理といふものがないことを政治は知ってをる。だから政治は眞理の模造品を作らねばならんのだ。』「劇場政治」が登場することの必然性と,さらにはその虚妄性を,なんとみごとについていることか。ここで「政治」を「賃金」に置き換えてみよう。「劇場人事」の「真実」が見えてこないだろうか。
労使関係実務の一方の当事者,労働組合の賃金屋を生業としてきた筆者の立場からみれば,これまでも,また,これからも,賃金に理想などなく,その理想を一義的に導くような真理も存在しない。すべては,相手があっての交渉ごと,立場の違う社会的勢力,すなわち労と使の間の,勢力説的均衡のもとで定まる。しかも,それは,その場,その時限りの妥協であって,予定調和的一点,永遠の安定に向かって収斂することはない。「労働力」という,本来商品にしてはいけないものを,「悪魔の挽き臼」にかけて商品化したことの宿命的矛盾から,賃金は逃れることはできない。これが一番大きな話。流行りの言葉でいえば,メタ賃金論である。
「劇場人事」での大向こう受けをねらって,「賃金破壊」から「賃金革命」まで「鬼面人を威す」ような,過激な言説が巷には満ちあふれている。そうやって,おどしておいて,最後のお説教は,「こうすれば,うまくいきます」という「ワン・ベスト・プラクティス」の勧めになる。この「ワン」が問題である。「ワン・オブ・ゼム」では商品差別化がはかれないから,どうしても「オンリー・ワン」になる。最近の流行りは,「グローバル・スタンダード」という,ピカピカ舶来品のお墨付きをつけて,まさに,これ以外にはない「オンリー・ワン」として売り込むことである。けれども,どんな身の丈にもあうように服を仕立てることなど不可能だ。そこで,「身の丈に合わない」という文句をつけたとする。すると,それに対する「グローバル・スタンダード」論者のご託宣は,おそらくこうなるだろう。「では,身の丈の方をあわせなさい。グローバル・スタンダードに適応する以外の道はないのですから。」これは,かの有名なギリシャ故事,身の丈を寝台に合わせるという「プロクルステスの寝台」の話に他ならない。
2. めざすべきは「制度の造り込み」
賃金処遇制度は,つきつめれば,どうやって差をつけるか,どの程度まで差をつけるか,という工夫に他ならない。「どうやって」の面では,制度の透明性・公平性・納得性の確保が重要である。組織内で,どれだけ納得と合意を調達することができるか,それが制度のパフォーマンスを決める。実務的に考えればすぐにわかることだが,この時100%の納得と合意は不可能なのであり,「ワン・サイズ・フィッツ・オール」的アプローチでは最初から挫折することは目に見えている。千変万化する状況の中で,その時々の「よりよい状態」をめざしていくしか道はない。
次に,どの程度の差をつけるかに関していえば,ここでも,理想的な格差の幅など,どこにも存在しない。与えられた状況の中で,お互いに納得できる線を労使が探っていくしかないのである。その際,受容限界を超えた格差は,結局「敗者のモラール・ダウン」というしっぺ返しを受けることを,経験は教えている。実は,評価のプロセスや結果についてはあまり情報を得ていない一般従業員も,自分の賃金の相対的位置についてはかなり正確に知っている。労働組合の賃金実態についての情報も流れるし,また同僚とのインフォーマルな情報交換もある。個人アンケートの結果などによっても,ある程度までなら賃金格差を容認するという人は多いけれども,その「ある程度」がどこまでなのかについての合意形成が重要なのである。
職場の現実は,劇場とは違う。もっと地味で淡々としている。「革命」的な変化ではなく,日々の現場あわせの中での漸進的変容の積み重ねが,制度を創り,また変えていく。そんな甘いことでは,グローバル時代にそぐわない。だから日本は駄目なのだ,といきり立つ論者もいる。しかし,こうした議論は,明治以来繰り返されてきた日本後進国論の焼き直しにすぎず,福沢諭吉先生のいう「議論の根本」を正しく立てるものとはいい難い。借り物の「スタンダード」は,評論家の飯の種以外には何の役にも立たない無用の長物であることを,われわれは何度も経験してきた。海の外の「スタンダード」を,日々の現場合わせで日本の現実に適応させてきた先人の知恵にこそ学ぶべきであろう。実際,戦後日本の賃金もそうやって独自の発展過程をたどってきたのである。
藤村博之教授は,賃金処遇制度の死命を決するものは,納得性の確保であり,そのためには,「制度自体に対する納得性」「制度の運用に対する納得性」「賃金水準に対する納得性」の「3つの納得性」に留意しなければならないと述べている*1。この「3つの納得性」を求めて,労使の賃金実務家たちの日々の格闘が展開されている。そして,その過程を通じて,モノ造りの現場と同様の,「制度の造り込み」が行われている。その「造り込み」の深さこそが,制度の命といっても過言ではない。いま,われわれに必要なのは,こうした「制度の造り込み」に衆知を集めることであって,グローバリズムのレトリックに溺れて,衆愚をかきまぜることではない。
3. 潮の変わり目に舵取りを間違えるな
最後に,中くらいの話。なので,大きな話の半分の分量で,駆け足で行く。
いま,日本の経済は大きな潮の変わり目に来ている。「失われた○○年」は,20年まではいかず,15年で終息してくれたようだ。持続期間だけをとれば「いざなぎ景気」にならぶ「平成長寿景気」の中で,ようやくさまざまな分野で可能性が語れるような雰囲気が出てきた。プラス思考も芽生えつつある。海の外でも,ジャパン・パッシングやジャパン・ナッシング論が後景に退き,「日本経済の復活」が話題になっている。けれども,「彼は昔の彼ならず。」いろいろな側面でのモデル・チェンジ,あるいはその兆候が現れている。このような時こそ,潮の変わり目に舵取りを間違えて,行方知れずに漂流に迷い込んだり,暗礁に乗り上げたりしないように,気配りを怠らないことが重要である。
賃金処遇制度の面でも,さまざまな変化の兆しが現れている。その中で気になることのひとつが,マクロ賃金決定における企業行動の変調である。
表は,財務省「法人企業統計」の年次データから,資本金10億円以上の大規模法人企業の付加価値,役員給与・賞与,従業員給与,配当金について,年率換算した伸び率の推移をみたものである。
マクロ賃金決定とは,「人々の年々に生産する富」(付加価値)を労使間でそのように分配するかをめぐる,せめぎあいである。1965年から1990年までは,「従業員一人当付加価値」の伸び率と「従業員給与」の伸びは,おおむね連動している。「役員給与+役員賞与」は,概して「従業員給与」の伸びを下回りながら推移している。その内訳をみると,「役員賞与」は「役員給与」に比べて変化のバラツキが大きく,調整要素として決定されているらしいことがわかる。従業員給与との連続性を持つ役員報酬の構造が形作られていったことが,マクロ賃金決定の上からもあとづけられるといえよう。なおかつ,役員報酬は従業員給与に遅れて上昇する動きを示すことからすれば,「企業共同体」の長老としての経営者は,「先憂後楽」を旨としていたかにもみえる。一方,「配当金計」の伸び率は,ほとんど「従業員一人当付加価値」と無相関の動きを示している。1990年代に入るまで,株主の関心はもっぱらキャピタル・ゲインにあり,フローの配分には目が向いていなかったことが,その背景にあるのだろう。
ところで,従業員,経営者,株主の間での,こうした付加価値配分のパターンは,1990年代に入ると徐々に様相を異にしてくる。2000年代に入って,景気拡大が持続し,企業収益も好調を続けるなかで,その変化はよりいっそう顕著なものとなっている。2000〜2004年の4年間に,「従業員一人当付加価値」は年率1.1%で伸びた。けれども,「従業員給与」は同じ期間に年率1%で減少した。これとは対照的に,「配当金計」は年率10.7%という大幅な伸びを示し,「役員給与+賞与」も,配当金とほぼ同率,年率10.5%で伸びた。経済学の教科書に登場する,株主利害の代理人としての経営者を絵に書いたような姿が,ここには現れている。
こうしたマクロ賃金決定が定着していくとしたら,その先に展望されるのは,一般従業員とCEOとの所得格差が天と地のように乖離するアメリカ型株主資本主義の世界であろう。それで果たしてよいのか。従業員というステークホールダーの利害を正当に反映しうるマクロ賃金決定機構を再構築しうるか否かが,労働組合には問われている。賃金のこれからを考える場合に避けて通れない選択の前に,われわれは立たされているといえよう。