最初の映画は労働映画だった
1895年12月28日,パリのグラン・カフェでのシネマトグラフ興業のポスター
映画を最初に発明したのは誰か,については諸説があります。単純に時期の点でいえば,1891年のエジソンによる「キネトスコープ」に軍配があがるでしょう。けれども,これは覗きからくりによる見世物の域を出ていない代物で,今日の映画とはかなりおもむきを異にするものです。
スクリーンに映写された動画を鑑賞するという,今日の形式の映画を発明したという点では,1895年,フランスのリュミエール兄弟による「シネマトグラフ」の発明と,世界で初めての映画興行(12月28日,於・パリ・グラン・カフェ)こそが,映画の誕生を告げるものといえるでしょう。
リュミエール兄弟の映画は,内容の点でもエジソンの作品をはるかに凌駕するものでした。第1に,それは当時のフランスの人々の日常生活を記録したドキュメンタリーであり,第2に,単に被写体をそのまま撮影したのではなく,映画製作者による「演出」が施されている点でも画期的でした。
ところで,リュミエール兄弟による最初の映画は,『工場の出口』(1895年公開,撮影は1894年頃)という作品で,リヨンのリュミエール工場から出てくる労働者の群像を撮影したものです。わずか46秒の超短編ですが,貴重な労働史の資料としてもみることができます。最初の映画は,労働映画*でもあったわけです。
*労働映画の定義については,次のエントリー参照。
労働映画の操作的定義とその適用
『工場の出口』La Sortie de l'Usine Lumière à Lyon (le Premier Film) (1895)
『工場の出口』には3つのバージョン(「2頭立て馬車」版,「1頭立て馬車」版,「馬車なし」版)があるといわれていますが,そのうちふたつはYoutubeでみつけました。下記のとおりです。
一番最後に2頭立ての馬車が登場します。
馬車が登場しないバージョンです。
ちょうどこの頃,染色技術を学ぶためにリヨン大学に留学中で,兄オーギュストと同窓生だった稲畑勝太郎(京都西陣出身)は,リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」の機材をさっそく購入し,日本への導入をはかります。稲畑勝太郎による日本ではじめての「シネマトグラフ」興業は,1897年2月15日,大阪南地演舞場で開催されました。活動写真時代の幕開けです。
こうして,世界での映画の開始とほぼ同時にはじまった日本の映画製作ですが,かなり初期のころに,次のような労働映画といえるような作品が作られています。
- 足尾銅山大暴動(吉沢商店のカメラマン小西亮撮影)(1907/3/1公開)
→これは間違いなく,最初の労働映画にして労働争議映画。
- 天下の電話交換手(1907/4/15公開)
- 月給日の快楽(1907/4/20公開)
- 紡績会社内部紊乱(1907/7/19公開)
次のような作品も,海外産業事情紹介ですが,労働映画の側面もあるかもしれません。
- 世界第一の鉄工所(1906/1/2公開)
- 英国スタンフォード州の世界一大鉄工場(1906/9/19公開)
- 仏国大鉄工場(1907/5/29公開)
なお、稲畑勝太郎は、大阪南地演舞場での映画興行に先立って、京都電燈株式会社(現、関西電力)中庭で試写実験を行いました。その後、この地(木屋町蛸薬師下ル)には立誠小学校が建設されましたが、現在は廃校となり、旧校舎建物の正面玄関脇には、「映画発祥の地」を示す、次のような京都市の碑文が掲げられています。
日本映画発祥の地
当地は明治三十年(一八九七),実業家であり、後に大阪商工会議所会頭も務めた稲畑(いなばた)勝(かつ)太郎(たろう)(一八六二〜一九四九)が日本で初めて映画(シネマトグラフ)の試写実験に成功した場所である。 明治二十九年(一八九六),万国博覧会の視察と商用でパリを訪れた稲畑は,フランス留学時の級友リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフ(映写機兼カメラ)と,その興行権,フィルムを購入し,リュミエール社の映写技師兼カメラマンのコンスタン・ジレルを伴って帰国した。そして翌明治三十年一月下旬から二月上旬にかけての雪の降る夜,京都電燈株式会社の中庭(現在の立誠小学校跡地)で国内初の映画の試写実験に成功した。 映画の上陸は,単にヨーロッパの文化や最新技術を日本に伝えただけでなく,人・もの・事物を記録し伝える映像メディアの始まりであり,新しい娯楽・芸術産業の始まりでもあった。この地を起点にした日本映画は二十世紀を代表する国民娯楽に成長していった。
京都市(外国語用日本文) この地は1897年,明治時代の実業家、稲畑勝太郎(1862〜1949)が日本で初めて映画の試写実験に成功した場所である。 1896年,パリ万国博覧会の視察と商用でパリを訪れた稲畑は,シネマトグラフ(映写機兼カメラ)と,その興行権,フィルムを購入し,映写技師兼カメラマンを伴って帰国した。翌年,京都電燈株式会社の中庭(現在地)で国内初の映画の試写実験に成功した。 映画の上陸は,単にヨーロッパの文化や最新技術を日本に伝えただけでなく,人・もの・事物を記録し伝える映像メディアの始まりであり,新しい娯楽・芸術産業の始まりでもあった。この地を起点にした日本映画は二十世紀を代表する国民娯楽に成長していった。
京都市