春闘のふたつの顔:分権的交渉と集権的調整

(『JILリサーチ』No.29,1997年3月号,pp.10〜13.)

春闘のふたつの顔:分権的交渉と集権的調整

鈴木 不二一


はじめに
春闘は,「賃上げのための生活防衛の闘い」(1955年総評第6回定期大会春闘方針)としてスタートした。けれども,現在では,その要求課題は単なる賃上げを超えて拡大しつつある。企業に対する要求も,時短や福利厚生などさまざまな労働条件改善の取り組みを包括する形で多様化しているし,さらに,これらを政府に対する政策・制度要求と複合させることによって,「総合生活改善闘争」として展開することが,労働組合の戦略となっている。実際,労働組合の文書に使われている公式の用語も,もはや「春季賃金闘争」ではなく,「春季生活闘争」である。
とはいえ,労働条件の集約としての賃金は相変わらず労働者の主要な関心事項のひとつであり,またマクロ経済運営という視点からも春闘における賃金決定は依然として重要な意味を持っている。
そこで,ここでは日本における賃金決定機構としての春闘に焦点をあて,改めてその意義を考えてみたい。
なお,本稿はあくまで筆者の個人的見解であることをあらかじめお断りしておきたい。


1. 柔軟な賃金決定
日本におけるマクロ賃金決定のもっとも際立った特徴は,国際比較的にみて,循環的経済変動に即応して伸縮的賃金調整が行われること,つまり賃金の柔軟性が相対的に高いことであろう。一時金や時間外手当などの景気変動に応じて変動しやすい調整要素が賃金構成の3割前後もの比重を占めていることと並んで,所定内賃金の水準を決める春闘賃上げ率もまたその時々の経済情勢を反映して決められてきたからである。このような傾向は,すでに高度成長期にもみられたことであるが,70年代後半以降の安定成長への移行に伴ってより顕著となった。
連合総研が行った春闘賃上げ率関数の推計結果(表1)によれば,1975-95年の観察期間中の春闘賃上げ率は,前年度消費者物価上昇率,前年度就業者1人当たりGDP伸び率(国民経済生産性),前年度有効求人倍率(労働需給指標)の3つの要因でほぼ説明されてしまう(決定係数0.95)。つまり前年度の経済実勢の事後調整的賃上げが続いてきたということである。
今年1月に発表された『OECDによる日本経済への提言』(95-96 対日審査報告書)は,日本の賃金の柔軟性の高さを,失業率を低く押さえる要因のひとつとして評価している。しかしながら同時に,こうした柔軟性の結果としてもたらされる賃金の変動を日本の労働者が負っているリスクのひとつにあげていることは重要な指摘であろう。
 労働組合の立場からみて,景気変動に即応する賃金変動がもたらすリスクとしてもっとも警戒するのは実質賃金の停滞と賃金格差の拡大である。次にこの点について最近の動向を簡単にみておこう。


表1.春闘賃上げ率関数の推計結果

被説明変数:主要企業春季賃上げ率(労働省労政局調査)
計測期間 :1975-95

   定数項  前年度CPI上昇率 前年度1人当り実質GDP伸率 前年度有効求人倍率 前年度賃上げ率
 係数推計値  2.4256 0.5321 0.3019 0.9059 -0.0503
 t値    6.7076 3.2635 1.9172 -0.8246

決定係数(R^2) 0.9539
標準誤差 0.5646

出所:連合総研(1996)『日本経済の新機軸を求めて−95年度経済情勢報告』



2. 最近の実質賃金と賃金格差の動向
まず,実質賃金の最近の動きに関しては,前年度の経済実勢の後追いとしての賃金決定が,生産性上昇率に対する賃金上昇率の遅れをもたらしがちであった傾向が指摘できよう。
80年代に入ってからの国民経済生産性(就業者1人当たり実質GDP伸び率)は年率換算で80-85年度2.4%,85-90年度3.3%,90-95年度0.7%であった。これに対し,雇用者1人当たり実質雇用者所得上昇率は,同じく年率換算でみて,80-85年度1.3%,85-90年度2.0%,90-95年度0.6%となっている。80年代を通じて賃金の伸びは生産性の伸びに対して1%ポイント強の遅れをとっており,90年代前半には生産性伸び率の急激な鈍化もあって両者の差は縮小するとはいえ,5年間をとればあいかわらず賃金の伸びが生産性の伸びを下回るという関係は変わっていない。
連合は,生産性の成果配分におけるこのような歪みをかねてより問題視しており,短期的な景気変動に過度に同調するのではなく,中長期的な視野から着実な実質賃金向上をはかるべきことを主張している。
一方,賃金格差についてはどうだろうか。
80年代は,多くの先進工業国で賃金格差の拡大が問題となった時期であった。OECDの『エンプロイメント・アウトルック 93』は,加盟各国における賃金格差の国際比較を行ったが,それによればデータの入手可能であった17カ国,実に12カ国で,程度の差はあれ格差拡大傾向が認められ,その中には日本も含まれていた。この分析結果は,日本の労働組合関係者にも深刻な反省を促した。
ところが,90年代に入ると日本の賃金格差は反転して緩やかながら縮小傾向がみられるようになった。
まず,OECDの分析のもととなった全体的な賃金の上下格差指標でみると(表2),80年に3.00であった第9・十分位数と第1・十分位数の格差倍率はその後80年代を通じて上昇傾向を辿り,89年には3.18のピークに達するが,90年代に入ると反転して下降線を辿るようになり,95年には3.01とほぼ80年の水準にまで戻っている。つまり80年代に生じた賃金の上下格差拡大傾向は90年代に入って縮小に転じたのである。
一方,企業や労働者の属性別にみた賃金格差については,表3に示すように,労働力構成の変化による上昇分を調整した所定内賃金の伸び率は,企業規模では大企業ほど,男女別では男子の方が,それぞれ伸び率が低い傾向を示している。学歴別では,男女で傾向が分かれるが,男子に関しては,高学歴ほど伸び率が低くなっている。つまり,所定内賃金の高いグループのうほうが,おおむね賃金上昇率が低い傾向を示していることになり,ここでも賃金格差縮小傾向が観察されることになる。



表2.所定内賃金分散の推移−産業,企業規模,性,学歴計−(1980-95)
(第9・十分位数と第1・十分位数の格差倍率 D9/D1)

年   1980 1985 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995
D9/D1 3.00 3.12 3.18 3.16 3.10 3.04 3.04 3.02 3.01

資料:労働省『賃金構造基本統計調査』
出所:連合総研(1996)『自律的回復の道と構造改革の構図−96年度経済情勢報告』



表3.企業規模別,性別,学歴別にみた実質所定内賃金上昇率(90-95年)
(労働力構成変化効果調整後賃金上昇率)

区 分  90-95年実質年率上昇率(%)
産業計   0.9
【企業規模別】
大企業(1000人以上)   0.5
中企業(100-999人)   1.0
小企業(10-99人)   1.3
【男女別】
男子計  0.8
女子計  1.2
【男子学歴別】
男子・中学卒  1.3
男子・高校卒  0.8
男子・短大卒  0.9
男子・大学卒  0.6
【女子学歴別】
女子・中学卒  1.1
女子・高校卒  1.0
女子・短大卒  1.5
女子・大学卒  1.3

資料:労働省『賃金構造基本統計調査』
備考:上記の数値は,90-95年の間の労働力構成の変化による上昇分を除去するために労働力構成を90年時点に固定した上で計算した5年間の賃金上昇率を消費者物価指数で実質化し,年率換算したもの。
出所:連合総研(1996)『自律的回復の道と構造改革の構図−96年度経済情勢報告』



3. 春闘「世間相場」の影響力
90年代前半は,日本経済が「驚くべき例外的な低成長」を経験し,その後の回復過程もまたかつて例をみない「回復感なき回復」を味わった時期であったにもかかわらず,たとえごく緩やかなものとはいえ,なぜ賃金格差縮小のトレンドが観察されたのか。
実は,この要因の解明は,90年代前半の賃金格差の動向の詳細な分析とあわせて,今後の実証研究の宿題となっている。けれども,筆者はひとつの有力な要因として,春闘による賃金決定メカニズムの作用があるのではないかと考えている。
春闘による賃金決定とは,一言でいえば,賃上げの「世間相場」を形成し,それを波及させていくメカニズムに他ならない。この「世間相場」の波及が賃金格差抑止機能として働いているのではないだろうか。
企業が賃上げを行う際の考慮要素としては,「世間相場」よりも「企業業績」を重視する傾向が強まり,最近では「世間相場」の影響力は格段に弱まったという指摘がしばしばなされる。
たしかに,96年の労働省「賃金引き上げ等の実態に関する調査報告」によれば,賃上げにあたっての考慮要素として第1順位に「企業業績」をあげる企業が75%であるのに対し,「世間相場」と答えた企業はわずかに15.9%にとどまっている。しかしながら,順位に関係なく「世間相場」を考慮要素として選択した企業の比率をみると74.3%に達しており,過去にさかのぼってもこの比率は7〜8割台でほぼ安定している。考えてみれば,企業の担当者に賃上げの考慮要素を聞いて,第1順位に「企業業績」があげられるのは当然であろう。むしろ,程度の差はあれ,ほとんどの企業が「世間相場」を賃上げの考慮要素として考えていることに着目すべきである。春闘の「世間相場」の影響力は依然として根強いものがあるとみなければならない。
「世間相場」の影響力は,組合のある企業にとどまるものではない。このことは春闘最盛期の60年代末に実施された詳細な実証研究が明らかにしたが,無組合企業の労使関係に関する最近の調査結果でも確認されている(日本労働研究機構,1996,『無組合企業の労使関係』)。


4. 春闘のふたつの顔:分権的交渉と集権的調整
前述した無組合企業の労使関係に関する調査結果で注目されるのは,日本で組合のある企業とない企業との間で有意な賃金の差が認められない原因のひとつが,この「世間相場」準拠の賃上げ方式ではないか,という指摘である。日本では労働協約を社会的に拡張するメカニズムが実質的には欠けているにもかかわらず,賃上げ相場の波及効果があることによって,春闘は,おおげさにいえば,雇用労働者全体を包括する5000万人の所得決定たりえているともいえる。
ところで,この「世間相場」の実態は何かといえば,情報である。春闘における情報の意味は,秋の要求討議から冬の方針決定,春の交渉・妥結,さらには夏の大会での総括へと,ほぼ年間を通じて回っているといっても過言ではない春闘サイクルの全体を視野に入れないと見えてこない。この過程で,企業,産業・業種,中央・地方の各レベルで膨大な情報が交換され,それらが相互に参照されながら,最終的な意思決定が行われる。分散孤立した企業別組合は,実は春闘サイクルを通じて,情報ネットワークで連結されていると捉えることができる。そして,この春闘サイクルが,春の会計年度の開始を起点とする経済のサイクルにシンクロナイズしていることも重要であろう。
日本の団体交渉制度は,企業別組合を主体とする分権的交渉の極みともいうべき形態をとっている。しかしながら,それは春闘を媒介とする情報ネットワークを通じた重層的な調整メカニズムをも内包しているのである。そして,春闘相場の形成は,結局特定のパターン・セッター組合の賃上げに集約され,それがほぼ画一的に波及していくことを考え合わせると,この調整メカニズムはある意味で集権的性格を持っているともいえる。つまり,春闘は分権的交渉と集権的調整というふたつの顔を持っているのである。日本における賃金決定の柔軟性も,そしてまた近年の不況下での賃金格差縮小傾向という現象も,集権的調整という,春闘が持つもうひとつの顔を考慮することなしには理解が難しい。
マクロ賃金決定と経済パフォーマンスをめぐる最近の議論の中で,団体交渉のレベルが中央か,産業か,それとも企業・事業所かという要素と並んで,団体交渉をめぐる労働組合間の調整機能が注目を集めている(例えば,OECD,1994,"Jobs Study:Evidence and Explanations",Part II,Chapter 5)。このような視点からも,春闘の情報ネットワーク機能は,マクロ賃金決定をめぐる社会的合意形成のための装置として,次の時代に引き継ぐべき重要な制度的遺産ではないだろうか。春闘の終焉が叫ばれ,団体交渉の分権化という世界的な流れが日本にもひたひたと押し寄せつつある今日,労働組合としても,春闘の再活性化によって時代の要請に応えていくことが急務であるように思われる。