賃金傾向値表の意義

賃金傾向値表の意義


鈴木不二一


(2000年12月11日,未発表の覚書。)

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賃金傾向値表とは

賃金傾向値表とは、性・学歴・年齢・勤続年数などの労働者の属性条件や産業、企業規模などの差異によって、賃金にどのような傾向的違いがあるかを把握するための一種の早見表である。賃金実務は、比較に始まり、比較に終わるといっても過言ではないが、賃金傾向値表はそのための道具のひとつであり、個別賃金の世間相場を示す早見表である。
なぜこのようなものが必要になるかといえば、わが国では、賃金の単価である個別賃金は必ずしも明示的になっていない場合の方が多く、しばしば問題の所在が分からなくなることが多いからである。
いまこれを簡単な例によって考えてみよう。表1は、A社、B社、C社の間で賃金等級別の賃金額は同一で、それぞれの等級ごとの人員構成が異なる場合である。表1の設定では、平均賃金は3社間で相当に異なるものの、賃金単価は同一であるから同種の労働者間での処遇に差はない。一方、表2は、平均賃金は3社とも同額であるが、個別賃金には格差が存在する場合である。いずれの場合にも単純に平均賃金だけを比較しただけでは事態を見誤ることになる。
賃金傾向値表は、ここでの賃金等級別の個別賃金の代替物として、便宜上、性・学歴・労職別の年齢・勤続別賃金額を用いた比較のための物差しに他ならない。




賃金傾向値表は戦前にもあった

日本の賃金構造統計の歴史は古い。大規模な賃金構造統計が開始されたのは古く大正末年にまでさかのぼり、年齢や勤続年数あるいは経験年数別の集計が実施されていた。すでにこの頃から、実務上こうした集計を必要とする現実が、背景として存在したものと思われる。
都合13回実施された戦前戦中の賃金構造統計は、サンプル数150〜250万人規模にも及ぶ大規模なものが多く、労働者の属性や職種、産業、業種別などの細かなクロス集計が行われている。こうした調査結果の分析の中で特に注目されるのは、1939年に厚生省労働局が実施した「労働者賃金調査」(サンプル数150万人)のデータをもとにした賃金曲線の推計である。
これは、当時この研究にあたった瀧本忠男厚生技師の名を冠して「瀧本式就職年齢別昇給曲線」と呼ばれたもので、次のような算式を用いたものであった。

Y(x+t) = A + B \frac{kt}{1+kt}

  Y:年齢別経験年数別賃金
  t:経験年数
  A:初給賃金
  B:昇給率
  k:職種別技能定数

表は、この算式を用いて推計された賃金傾向値表の一例である。
コンピュータのない時代に、こうした高度な賃金構造の分析が行われていたことは驚嘆に値する。
賃金年齢や勤続に着目するわれわれの賃金実務のルーツは相当に古いものであり、賃金傾向値表もまたその例外ではないのである。


賃金傾向値から賃金曲線を描いてみる

賃金傾向値表の数値を右斜めに辿っていってみよう。大卒であれば、22歳勤続0年、23歳勤続1年、24歳勤続3年、…という標準者の賃金が得られる。今度は左端の数値を下にみていくと、これは各年齢の勤続0年の賃金、すなわち中途採用賃金である。標準者賃金と中途採用賃金の間に挟まれた数値を斜めに辿っていくと、ある年齢で中途採用された後、勤続を重ねていった人の賃金の軌跡を追うことになる。例えば、30歳勤続0年から始まって、31歳勤続1年、32歳勤続2年、…と続けていけば、30歳で中途採用された人の、その後の賃金の推移をみることができる。
もちろん、こうして得られた賃金の軌跡は現実のものとは違う。あくまで、現在の賃金水準が変わらないと仮定した時の、将来予想される賃金の軌跡である。賃金水準は年々上昇していくし、また賃金曲線の形状も変化するから、ある人の実際の賃金の歩みはもっと複雑なものとなる。とはいえ、賃金傾向値表に現われている数値には、年齢と勤続年数という2つの変数を基準に見たときの、現在の賃金秩序の一面が表出されていると読んでみれば、固有の、しかも重要な意義をくみとることができる。
図は、大卒男子事務技術労働者(産業計・規模計)の賃金傾向値から、標準者、30歳中途採用者、勤続0年賃金の3つの賃金曲線をグラフにプロットしたものである。
 勤続0年の曲線は、それぞれの年齢での中途採用者の初任給を結んだものである。これは、年齢効果のみによって、どれだけ賃金が上がるかを示している。標準者の賃金曲線は、年齢効果に勤続効果がプラスされたものである。中間にある30歳中途採用者の賃金曲線は、標準者曲線とほぼ平行して走っている。つまり、入社して以後の勤続効果はほぼ変わらないものの、入社時点の勤続0年と8年の差がその後も持ち越されていくのである。




賃金曲線の形状の違いを比較する

賃金曲線は、賃金構造の違いをヴィジュアルに示してくれる。
その一例として、大卒男子事務技術労働者と高卒男子生産労働者の賃金曲線の比較を試みてみよう。
図は、標準者、30歳中途採用者、勤続0年の3つの賃金曲線を大卒事務技術と高卒生産労働者について描いてみたものである(いずれも、産業計、規模計)。
日本における学歴別およびブルーカラーとホワイトカラー間の賃金格差は、国際比較的にみて相対的に小さいといわれている。とはいえ、中高年になると両者間の差はかなりなものになることが分かる。高卒生産労働者の標準者賃金曲線は、大卒の勤続0年曲線とほぼ見合う程度であり、なおかつ30歳台後半になると大卒勤続0年に追い越されてしまう。大卒事務技術の賃金曲線の特徴は、標準者賃金曲線の傾きが大きいこととならんで、勤続0年の曲線もまたそれほど「寝ない」ことである。つまり、賃金に対する年齢効果が相対的に大きい。
一方、高卒生産労働者の勤続0年賃金曲線は30歳台半ばをピークに下降に転じてしまう。その結果、中高年層においては標準者賃金曲線との乖離が、ますます拡大していく傾向にある。このことは、賃金に対する勤続年数の効果が大卒に比べて相対的に大きいことを意味する。
 以上は平均的な傾向であるが、さてあなたの会社の賃金をこの図にプロットしてみるとどうなるだろうか。ぜひ試みていただきたい。




昇給額・率は逓減する

年齢1歳当り、勤続1年当りどのくらい賃金が上昇するかが賃金曲線の形状を決めている。賃金の上げ方ないし上がり方は、賃金管理上重要な要素であるのみならず、労働者にとってみれば職業的生涯における所得の見通しを得る上できわめて大きな意味を持つ。そこで、こんどは年齢とともに昇給額ならびに昇給率がどのように変化するかという視点から賃金傾向値表を分析してみよう。
図は、大卒男子事務技術と高卒男子生産労働者の昇給額・率を標準者についてみたものである。
一見して、大卒事務技術と高卒生産労働者の間には、昇給額の上でも、昇給率の上でも、かなり大きな差があることが分かる。この差が両者の賃金曲線の形状の差をもたらしているわけである。
年齢の上昇に伴う変化としては、大卒事務技術の場合は昇給額、昇給率ともに、高卒生産の場合は昇給額において、おおむね30歳前後までの上昇とそれ以降の逓減傾向が認められることである。このことは、年齢構成の高まりとともに平均昇給額あるいは平均昇給率が低下することを意味する。いわゆる定期昇給率は60年代の3%程度の水準から次第に下降線を辿って今日の2%前半にまでいたったが、その背景には賃金曲線の上昇鈍化傾向とともに、昇給額・率の相対的に低い中高年齢層への労働者構成の比重が移ってきたことの影響も大きかったのである。



賃金水準の集約的指標としての生涯賃金

賃金の比較は多面的に行う必要がある。そこで、詳細な賃金統計をもとに、学歴別、性別あるいは若年層、中高年層、標準労働者、中途採用者など、さまざまな角度からの数値の吟味が行われる。
しかしながら、一方でこうした多くの数値をひとつに集約することも重要である。要するに、「一言でいえば」どうなのかということである。
このための賃金分析の手法としては、ラスパイレス方式による労働者構成を調整した賃金指数の算定など各種のものがあるが、賃金傾向値表から得られる賃金水準の集約的指標としては、推定生涯賃金がある。
これは、各年齢ごとに所定内賃金を12倍し、賞与を加えた年間賃金を算出した上で、それらをすべて加算した総和である。標準労働者の賃金曲線で考えてみれば、就職年齢から退職年齢に至る年間賃金曲線で囲まれた面積を求めたことになる。
もちろん、これは実際の生涯賃金ではなく、あくまで現在の賃金水準が将来とも変わらないと仮定した上での推計値ではあるけれども、賃金水準のもっとも集約的な指標としてみることができる。95年度賃金傾向値表によると、標準者生涯賃金の推計値は、高卒男子生産労働者(18〜60歳)で2億1780万円、大卒男子事務技術労働者で3億912万円であった。