〈視点〉個人別交渉と団体交渉

(『DIO』No.101, 1997年3月)

〈視点〉個人別交渉と団体交渉

団体交渉とは、いうまでもなく、団体で行う交渉ではない。労働者が自ら選んだ代表が、労働者の集合的意思(collectivewill)を代表して、使用者あるいはその団体と雇用・労働条件について取引き(bargaining)を行うことである。戦前には、「集合取引」という訳語があてられていたこともある。
労働組合の構造と機能を徹底的な実証分析によって明らかにした、古典中の古典とも呼ぶべき、ウェッブ夫妻の『産業民主制論』(1897年)によれば、団体交渉の特質と意義を読み解くキー・ワードは、労働条件決定における「個別的特殊事情」の排除にあるという。例えば、一方に、明日食う米にも事欠き、仕事さえあればいくらでも働きたいという労働者がいて、他方に人並み外れた体力にものをいわせて、低い賃金率のもとでも、目いっぱい働くことで暮らしを賄える収入を稼ぎ出せる労働者がいたとしよう。もし、労働者が個人別交渉で使用者と取り引きを行ったとすれば、このような両極端の労働者の「個別的特殊事情」の作用によって、労働条件は低いレベルに引き寄せられてしまうだろう。
団体交渉は、このような個人別交渉とは異なり、平均的労働者に着目して、労働条件の「共通規則(コモン・ルール)」を確立し、一律に適用することを通して、労働条件決定における「個別的特殊事情」の影響を排除する。そして、この「個別的特殊事情」排除の論理は、単に個人レベルだけではなく、事業所間、地域間のそれをも排除する方向に向かわなければ完結しない。かくて、イギリスの労働組合は、職種別あるいは産業別の全国的団体交渉制度の確立を志向するに至ったという。さらに、団体交渉による労働条件の平準化は、労働の質を引き上げ、使用者に労働を「うまく使いこなす工夫」(工程改善や機械化など)を促すことによって、結果として国民経済の効率性を高めた、とウェッブは主張する。
日本の労働組合もまた、「個別的特殊事情」排除の論理にしたがって、団体交渉制度を発展させてきたとみることができる。まず、事業所内の個人を束ね、次に事業所間の差を超えて、企業内における統一的労働条件を確立した。しかし、ここで日本の労働組合を待ち受けていた難問は、企業レベルでの「個別的特殊事情」をいかに排除するかという問題であった。結局、ほとんどの場合、企業を超えた団体交渉制度はできなかったけれども、分権的団体交渉の極ともいえる企業別交渉がそのまま孤立分散したわけではなかった。単産、ナショナル・センターあるいは地域組織を通じた連絡と調整によって、企業別組合は縦と横が複雑にからむネットワークによって連結されたのである。それは組織構造の再編によるハードなネットワークではなく、情報の交換を媒介とするソフトなネットワークであった。そして、春闘に典型的にみられるように、この情報ネットワークによる、「個別企業の特殊事情排除の論理」は、結果としてかなりの成果をあげたというべきであろう。情報ネットワークによる企業別組合の連結は、欧米における強大な全国組合の機能的等価物とみることができるかもしれない。
ところで、いまや時代の流れは、個人尊重、個性と多様化である。横並びの結果としての画一的一律性は、個性を殺し、創造的人材の能力発揮を妨げるという議論も有力になっている。たしかに、安易な横並びによる意思決定には弊害が多いだろう。画一的な賃金のもとでは、働くインセンティブもわかないかもしれない。けれども、横並びの否定が、「個別的特殊事情」尊重の論理にまで飛躍するとしたら、労働組合は待ったをかけなければならないだろう。ウェッブの議論を逆に辿っていけば、その行き着く先が個人別交渉の復活になりかねないことを想起しなければならない。労働組合は、団体交渉による共通規則の確立によって、個人や企業レベルの個別性一般を否認するわけではなく、共通規則を上回る条件はむしろ歓迎するところといってもよい。労働組合に何かといえば画一的というレッテルをはる議論は、あらぬ誤解にしかすぎない。労働組合は共通の基盤の上でのフェアな競争を主張しているのであって、競争一般を否定するものではない。
企業レベル、事業所レベルへの団体交渉の分権化が、いまや世界的な潮流であるという。この流れは、これ以上分権化しようがあるのかと思われる日本にも、ひたひたと押し寄せている。個性重視が個人や企業レベルの「個別的特殊事情」重視にすりかえられ、団体交渉が個人別交渉に後退させられて、結局個人の孤立をまねくことのないように、労働組合は原点に立ち帰って、かぶとの緒をひきしめなければならないと思われる。